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  本官は神功皇后が新羅御新征よりの帰途(西暦一九二年)軍船を筑後葦原の津(大川榎津)に寄せ給うた時、皇后の御船のあたりに白鷺が忽然として現われ、艮(東北)の方角に飛び去りました。皇后はその白鷺こそ我が勝運の道を開き給うた少童命の御化身なりとして。白鷺の止る所を尾けさせられ、其地鷺見(後の酒見)の里を聖地とし、武内大臣に命じて仮宮(年塚の宮)を営ませ、時の海上指令であった阿曇連磯良丸を斉主として少童命を祀りました。(旧暦十一月二十九日)
古来より風浪の灘を守護し給うにより風浪を社号とし代々の久留米有馬藩主の崇敬厚く国司賢将始め筑後国一円の信仰をあつめ、俗に「おふろうさん」と呼び親しまれ勅命社として千八百余年の由緒をもつ著名の大社であります。
 
 
 
 

  松風稲荷神社、岩藤稲荷神社、月読神社、天満神社、祇園社、薬師社、梅宮  


  風浪宮外苑の一隅に阿曇磯良丸を祀る社があります。
磯良丸は、干珠満珠をもって皇后に従い船団の海上指揮をとった航海熟達の海士で風浪宮初代神官としてこの地にとどまり代々その後を襲ぎ現宮司を以って第六十七代を数える一系であります。
磯良丸に仕えた船頭のうち七名も此地に生業を得て当時の船名(興賀丸、六郎丸、古賀丸、石橋丸、徳丸)を襲ぎ宮乙名と称して恒例の神事に奉仕します。磯良丸は海洋族の酋長として、当時大陸との交易により大陸文化を導入し日本の農業、工業基他全般の産業を興して日本開国の基を築き、ここ大川の地の木工産業発祥の守護神として信仰されております。
今日船名に「××丸」と丸を附するのは磯良丸の丸に起因するものであります。
 
 
 

  永禄三年 (西暦一五六○年)時の領主蒲池鑑盛入道宗雪の再建によるもので、慶長五年(西暦一六○○年)八院合戦により現在の本殿を残すのみとなりました。
構造は簡素で手法は巧み、三間社流造、桧皮茸、鎌倉時代の豪直な気風をよく微しています。
 


  正平十年(西暦一三五五年)の銘記により俗に正平塔と呼ばれ、二重基壇の上に五層の軸部と屋根とを重ねた塔身と頂上に相輪をもつ石塔であります。
 
 塔 銘
(全 面)奉造立筑後州酒見村当所九十九ヶ所大権現之御宝前五重石塔一基右旨趣
(左 側)者為天長地久久御願円満国土豊饒殊当村安隠万民快楽乃至法界平等利益
(後 面)因也仍所奉造立如件 沙弥道一 正平十年乙末十月一日
     願主 沙弥道慧 沙弥道一  大工 藤原介嗣  啓白


  双獅子の合体彫刻で宋風がうかがわれ、宗像大社、観世音寺の重要文化財指定のものと同系であります。  


  少童命の化身である白鷺が止まったとされる大楠で樹齢約二○○○年、幹回り八メートル余、四方に張った枝の長さは二十〜三十メートルあります。
幹には大人二、三人は入れる程の空洞があるが樹勢は益々盛んで神霊が宿る御神木として信仰されています。
 


  江戸期、風浪宮大祭の折くるめ藩主ご参列の下、当宮参道馬場に於奉納されていたものが今日まで伝わっている。頭には藁で作ったかぶりものに五色の御幣を取り付け、手作りの竹で作った弓矢を使って参道を三回走りぬける奉納神事である。  


 
 

磯良丸神社の傍にある石塚(二坪余 重量七屯余)は往昔のドルメンであるとの学説がある。別名「たもと石」と云います。
神功皇后が三韓から御帰還の折、袂に入れてお持帰りになったが、年を経てこの様に大きくなったと伝えられ「年毎に増大する」のは商業繁昌を意味すると言われています。

 
   都よりある大宮人の下りて読み給う歌一首
      かしこしや ありし功のしるしとて
              かかる巌ののこることかな


  この境内に、もと(正平十年)菊池城主の献進にかかる石灯籠一対がありました。後年これをみた久留米藩主はその美しさにうたれ、特に好んで江戸藩邸の庭に移そうとして遠江灘を航行中、難破の厄にあい沈没したため、神威を怖れ代灯を献じました。